2018年6月30日土曜日

「しつけ」と称して、虐待する親

我が子に対して「しつけ」と言って虐待する親が多いそうだ。「しつけ」とは自己弁護の為に都合良く用いている様だ。本当は「しつけ」と称して、親のストレス解消、欲求不満のはけ口、お門違いの憎しみや恨みのはけ口に我が子を虐待している様だ。本気で「しつけ」をする気なら、別に体罰、暴力、虐待などする必要は全く無く、言葉で説明すれば十分理解できる筈。「しつけ」とは名ばかりで、本当は「体力的にも、立場的にも、抵抗も出来ない様な弱者へのいじめ虐待、暴力、残虐行為」以外の何物でもない。『しつけ」と称して虐待を繰り返す親こそ「自分への躾」が必要ではないか?我が子に暴力、虐待をする親に「しつけ」等と言う格調高い言葉を使う、語る資格など全くない。

2018年6月29日金曜日

「死を恐れない」vs「死を恐れる」

若者は「死は怖くない」「いつ死んでもいい」等と良く口にする。一方老人は「死にたくない」「なるべく長生きしたい」「死を迎えるのが怖い」と口にする。自分の健康に自信が有り、死を身近に感じていない若者は「死は怖くない」と言うが、死を身近に感じている老人は「死」に対する恐怖感、この世に対し未練が有るのだろう。人間は必ずいつしか死を迎えなければならないが、老若男女を問わず、自分の健康に自信が有り「死を遠い存在と感じる人」は死を恐れないと口にし、健康に自信のない「死を身近に感じる人」は、この世を去る「死」を恐怖の存在と考える様だ。

2018年6月28日木曜日

『食べたい」の誘惑には勝てないネ

連日は早めの夕食を済ませ、雑務を処理して時間を過ごし、真夜中事に成ると、小腹がすいてくる。「真夜中、寝る前に食べるのは胃に負担もかかるし、身体にもよくないから、夜食は控えよう」と、理性を働かせ、「食べたい」と言う誘惑と戦う。「我慢」「食べたい」の葛藤の末、「マー今夜位良いか、お腹が空いていては良く眠れないし」と、自分に都合の良い、納得させる様ないい訳で、夜食を口にしてしまう。矢張り「食べたいと言う誘惑には勝てないネー」と言うのは私だけかな?他の人は真夜中まで起きて無いから、夜食など食べないし、「食べたい」と言う誘惑など考えないかな?でも「食べたい」と言う誘惑は、結構強烈ですよね。私の意志が弱いのかも。

2018年6月27日水曜日

ビールを飲み、今日の労をねぎらう

今日は雨のち曇りで湿度の高い一日で、幾分過ごし難い日であった。しかし、今日も無事一日が終わり、自分の労をねぎらうべく、枝豆や冷ややっこをつまみに、ビールを飲みながら、今日一日を振り返る。今日もこれと言った大きな変化も無く、特に悪い事も無く無事過ごせ、自分に「お疲れさん」と言いつつビールを飲む。こんなたわいもない事が、意外と幸せなのかもしれない。「楽あれば苦あり」「苦あれば楽あり」に関係なく、何の変化、心配も無い平々凡々の一日が過ごせたことに感謝する方が気が楽で、のどを潤すビールが何とも美味しく感じられる。

2018年6月26日火曜日

冷麺の美味しい季節となりました。

暑い日、湿っぽい日が続いていますが、気温は連日結構高い。こんなとき日本には冷麺と言う素晴らしい食品が有る。冷麺と言えば、冷やし素麺、冷やしうどん、冷やしそば、冷やしラーメンが代表的と言えるかも。その日の気分次第で、ソーメンを食べたり、うどんを食べたり、そばを食べたり、ラーメンを食べたりと、日本人は本当に食べ物に恵まれた国と言える。今日の私の昼食はうどんとソーメンを混ぜてゆで上げ、冷やして食べたが、これまた一度で二度美味しい冷麺で、何とも言えない美味しさであった。こんな時日本人で良かったとつくつく感じる単純な私である。

2018年6月25日月曜日

どの様にして虐待親に成る?

人知れず密室で、我が子に対する陰湿、過酷、残酷な虐待が増えている昨今、「何故虐待親が増えるのか?何故虐待親に成るのか?どの様にすれば虐待親に成るのか?」「虐待防止の最善策は何か」を本気で、早急に究明し、対策を講ずる必要が有る様に思える。虐待親を、単に「狂っている」「精神異常」として処理する事は出来ない様だ。「虐待される側の苦しさ、辛さ、痛み、恐怖」など全く気にしないで、虐待など出来る悪魔的人間は居るのだから、早急に対策を講ずる必要がある。虐待に関しては、児童相談所など余り期待出来ない世の中、何といっても親の良識、親としての自覚、親としての責任、近隣住民の協力、通報が、貴重な子供たちの命を救う有力な手段の様だ。最終的には虐待親をこの世から無くす事が最善策であるが、これもなかなか難しい問題故、虐待親を見つけ出した時には、二度と虐待しない様な厳罰に処するか、永遠に刑務所に入れておく事しか出来ないかもしれない。何の罪もない幼子の命を救う為には、政府も思い切った対策をとる必要が有ろう。

2018年6月24日日曜日

我が子を虐待する親は何の為に生まれてきた?

目黒区児童虐待で子供をしに追いやった船戸雄大と優里両名は、今や残酷な虐待親として有名であるが、彼等はこの世に何の為に生まれてきた?子供の結愛ちゃんに暴力を振るい、虐待し、恐怖に陥れ、殺す為にこの世に生まれ、生きて来たのか?結愛ちゃんは、この様な悪魔の親二人に、ろくなに食事も与えられず、一人で孤独な、虐待で恐怖の日々を過ごすよう強要され、何ら親の優しさ、愛情も感じる事も出来ず死に追いやられ、只親の犠牲に成る為に生まれ来たのか?船戸雄大にとっては実子では無くても、腹を痛め子供を産んだ母親までが、結愛ちゃんに何の救助の手を差し伸べなかった事、と言うより一緒に虐待に協力して居た事は、絶対に許せない。法律上保護責任者遺棄致死かもしれないが、これは完全なる殺人罪として処罰すべき事案ではないか?この余りにも悲しい、悲痛な出来事に、親を恨み、結愛ちゃんを哀れみ涙を流す人は多い。

2018年6月23日土曜日

子供の命、親が守らずだれが守る?

悪魔の如き親による虐待で、多くの命を奪われているが、これらの狂った虐待親に尋ねたい「子供の命、親が守らず、誰が守る?、お前の命を守ってくれたのはお前の親じゃない無いのか?」と。親には常に従う事を求められる子供には、親を選択する事も出来ず、幾ら酷い親でも「唯一の親」であり、「何をされても、どんな過酷な仕打ち」を受けても、親には従い、気に入られ、心配かけまいようと、実にけなげで従順である。そんな幼子の気持ちを無視して虐待、暴力を振るう親は、「一体貴方は何様?」と尋ねてみたい。子供は親に虐待を受ける為、親のストレスのはけ口として暴力を受ける為にこの世に誕生したのではない筈。

2018年6月22日金曜日

「転ばぬ先の杖」ではなく、「死んだ後の慌てぶり」

近年幼い貴重な命が、鬼畜親、悪魔親による虐待で奪われている。世間一般では「何事も転ばぬ先が重要」「起こってしまってからではなく、起こる前に対策を」とか「予防が最善策」等と、さも尤もな事を頻繁に述べている。しかし、虐待、育児拒否、我が子に対する行き過ぎた暴力などには全く適応も対応も出来ていない。中には「児童相談所は本当に仕事しているのか?」と厳しい意見や批判も多いが、「子供の唯一の守りての親」が残酷な虐待により、貴重な幼い子の命が奪われれば、当然の攻めと言える。今の日本は何事も「転ばぬ先の杖」という諺も今では「殺された後に慌てふためての対策」に代わってしまった様だ。

2018年6月21日木曜日

児童相談所は虐待児を救済してる?出来る?

児童虐待は繰り返され、多くの児童が犠牲に成っているが、その数は年々増え、虐待も残酷に成って来ている様だ。その都度児童相談所の役割が話題になるが、何らかの理由「スタッフが少ない、手が回らない」「家庭を訪問しても拒否される」「業務連絡や引継ぎが出来ていない」等々述べているが、児童相談所は、「本気で虐待時を救済する意思や姿勢が有るのか?虐待児を救える機関、組織なのか?」と、疑問視されてきている。しかし、いかなる理由、言い訳が有ろうとも、余りにも虐待による犠牲者が多すぎて、組織、機関の存在と業務姿勢を多くの人々から疑問視されても、仕方ない状況であろう。この世は全て結果で判断される訳だからね。

2018年6月20日水曜日

虐待、暴力は憎しみの行動

親が我が子を虐待や暴力を振るう事は、通常では考えられない行動であるが、継続的に虐待や暴力を振るう場合は、躾とか注意するという事では無く、正に憎しみから出てくる行動である。親が子に対して何故憎しみを持って暴力を振るい、虐待するのか全く理解出来ないが、子は幾ら虐待され、暴力を振るわれても、親に対する憎しみは持たないし、持てず、幾ら虐待されても「好かれよう、気に入られる様にしよう」と必死である。虐待される子には、親が如何なる過酷な虐待や拷問を使用とも、従順に、けなげに親を信じ、頼るのである。その様な純真無垢な子に虐待や暴力を振るう親は、鬼畜、悪魔としか言いようが無い。

2018年6月19日火曜日

我が子を虐待する以前に自分を虐待せよ!

世の中には我が子を虐待する様な、如何しようもない馬鹿親が居て、この馬鹿親の犠牲に成る子は本当に可哀想である。「我が子を虐待する前に自分自身を虐待したらどうか」と言いたくなるほどだ。虐待する者は、虐待される側の痛み、苦しみなど全く分からないし、分かろうともしないのだから、一度、こういう馬鹿な親に虐待される側の経験をさせてみる必要が有るのかもしれない。通常我が子を虐待する親は、気が小さく、気も弱く、抵抗も出来ない様な弱いものだけに暴力を振るう様な卑怯者である。虐待されてもその子にとっては唯一の親で「何をされても親に好かれよう」とするこの気持ちが、何とも悲痛であるり、何ともやりきれない。「虐待する親よ、人間らしい心を持て」

2018年6月18日月曜日

虐待する親に罪の意識はない

我が子を虐待する親が年々増え、虐待する内容も年々残酷に成って来ている様だ。親の虐待により命を無くす子も増えている様だが、虐待する親は「虐待に対し、罪の意識を感じる事も反省する事も無く、むしろ快感を感じている」様だ。一度虐待すると「快感」を感じ、その虐待の内容もどんどんエスカレートし、死に追いやってしまう様だ。虐待事件が発覚し、逮捕された親は「躾のつもり」と必ず言うが、この悪魔的な虐待親には「人間の心、慈悲の心、親としての心、愛情」が全く無いので、永遠に「悪かった、可哀想、罪の意識、反省、大変な事をした、命を奪ってしまった」等、決して考える事も、心を入れ替える事も無い。この様な残酷な虐待親は永遠に刑務所に収監するか、死刑にするしかないのである。行政はじめ関係諸機関は、虐待防止策を真剣に考えるべきであろう。

2018年6月17日日曜日

生き地獄の日々を過ごさせられた女児

目黒区で5歳の女児が、鬼畜の親に日々虐待で、何の親の愛情も受けられず、苦しい思いの生き地獄の生活を強要され、実に痛ましい。どんなに酷い虐待を受けても、その鬼畜を「親」と考えざるを得ない状況に置かれたこの女児は、何とか「親に好かれよう」と、必死に鬼畜親の言う事を守り続け、最後には「許してください。お願します」と苦しさを訴えても、ろくな食事も与えられず殺されてしまった。本当に言葉も無い、心の痛む事件である。今日も何処かで人知れず、密室で虐待されている子供が居るのだろうか?近年心無い鬼畜親が増えて来ている様な気がするが如何だろう?

2018年6月16日土曜日

5歳女児、親に殺される?ー親、人間のする事か?

鬼畜の親に殺された5歳女児の事は、最早誰もがご存知であろう。充分な食事を与えず、電気も無い部屋で一人で寝起きをさせ、外出も一人だけ家に残し、拷問ともいえる過酷なルールや虐待で日々を過ごさせたこの親。この親は「親も人間も名乗る資格は無い」と多くの人は感じた様だ。親なら「自分は食べなくても子供にはヒモジイ思いをさせない」のが普通。「親なら子の為に我が身を楯、犠牲にして子を守る」筈であるが、「大人が我が身を守る為、自己満足の為、日々僅か5歳の女児にありとあらゆる虐待を続け、死に至らしめた。日々の虐待、空腹、親からの愛情の無い生活、数えきれない苦しさの中「許してください。お願します」と懇願しても、死に追いやったこの親は生きている価値も無く、死刑に値するのでは?私はこの様な鬼畜親を許せません。近年我が子に対する虐待事件が多い様だが、行政は虐待親から子を守る為、何も予防対策は出来ないの?

2018年6月15日金曜日

我が子を虐待する親は許せないー何故救えない?

いつの世も我が子を虐待して満足感を得ている親は決して許せない。「躾」と称して、我が子を虐待し、時には死に至らせる親は、もはや親ではなく暴力魔と言えよう。本来なら我が子を守るのが親である筈のものが、親が自分で我が子を痛めつけ、虐待、拷問を続けるなんて、まともな親なら考えられない事である。子に対する虐待は、人目につかない密室で行われる為、親から虐待される子供には逃げ場も無い。子供は幾ら親から虐待されても、その親を捨てる事は出来ず、永遠に虐待親の子で居なければならない。虐待される子は、虐待される為に生まれてきた訳でもないのに、如何なる手段を用いても、何とか虐待される子供を救う方法がないのだろうか?

2018年6月14日木曜日

幼い貴重な命を奪う親?

我が子の貴重な命を奪う親とは一体どういう人間、親なんだろう?我が子を虐待し、まともな食事を与えなかったり、親でさえ実行不可能な命令で、我が子を支配、拷問、虐待する親の神経、人間性とは一体どんな人間(人間ではなく悪魔かな?)なんだろう。この親は正に我が子に対する殺人行為ではないの?それも最も残酷な長期に渡る拷問同様である。逮捕された親は、ほぼ必ず「躾のつもり」と馬鹿の一つ覚えのセリフで、自分の最悪の罪を逃れるか、軽減したり正当化しようとする。我が子を虐待、拷問、殺人で貴重な命を奪う親(大人?)に「躾」等と言う資格は無いだろう。「躾我が子に躾と言う前に自分をしつけろ」と言いたい。弱い立場にある子供達を虐待、拷問するような親は「親、人間と言うより悪魔、鬼畜以外の何物でもない」

2018年6月13日水曜日

何気ない一言が、人を傷つける?

人間付き合いは、何かと気を使わないといけない事が多い。日常のごく普通の意思疎通、会話でも、悪意も無く、人を傷つける意思も無い、何気ない一言が、解釈次第では人を傷つけたり、トラブルの原因になる事も多い。そういう意味で、人と話す時は細心の注意を払って、誤解の無い様に言葉を選びながら話さないといけない時代の様だ。長年の友人関係も、何気ない一言が、相手の心を傷つけて、友人関係が終わってしまったという人も結構多い様だ。自分にとって何気ない言葉でも、時と場合や状況(T.P.O)によって、他人の心にグサリと突き刺さる事も有る様だ。特に最近では、言葉や会話に実に敏感な人も増えている様で、何気ない会話も神経を使いながら話さないといけない時代の様だ。

2018年6月12日火曜日

平々凡々は幸せの代名詞

人は良く「何か良い事ないかな」とか「何か面白い事ないかな」とか「何か変化が欲しいな」等と口走る。平々凡々のマンネリ化した日々から、何かの刺激を受けて変化が欲しいのだろうが、全て自分次第で、他人が如何こうする物でもない。色々言ってる本人もその事は分かっているけど、何気なく口にしているのだろう。しかし、よくよく考えてみると「平々凡々な日々」と言うのは、結構自分が安泰であるという意味なので、幸せな事と考えるが如何だろう。人は常に変化を求めがちであるが、「平々凡々も良い事」と考えられないだろうか。「可も無く、不可も無く、平々凡々は幸せの代名詞」等ともいうが、ご存知だろうか?

2018年6月11日月曜日

どんな小さな幸せでも、幸せは幸せ

自分にとって、如何に小さな幸せでも、これ程精神的に満足感の得られる物は無いと考える。他人から見れば「何だ、そんなちっぽけな幸せか?」等と言われても、「自分の幸せは他人には全く理解出来ない事」である。「他人にとって、取るに足らない、如何なる些細で、小さな幸せ」であっても、「本人にとっては大きな幸せで満足感、納得感」である事は間違いない。「大きな目標達成だけが、幸せを感じる評価基準では無い」と言える。「大きな目標設定をして、達成できず、毎日苦虫を潰したような顔つきと不機嫌さで、周りの人に心配と迷惑を掛けるなら、小さな目標を達成して、明るく楽しい毎日、人生を過ごす方が、どれほど幸せだろうか」と考える方が、人生にとって良いと考えるが、如何だろう。とかく人は「大きな目標設定」だけを評価基準にしている傾向にある様に思えるだが、本当にこれで良いのだろうか、これでは連日、不満足の日々で、不幸せとストレスの日々ではないだろうか?最終的には本人が選択すれば良い事だが、貴方はどちらを選択します?

2018年6月10日日曜日

眠れる事の幸せ

年を重ねるにつれ、人間にとっては大変重要な「眠り」に、色々と問題が出て來るようだ。夜中に何度も目が覚めたり、トイレに起きたり、一寸した音に反応したり、眠りが浅く、目覚めた時に疲労感が残ったりするようだ。最近では医者に相談すると、直ぐに眠り易くなる様な薬を提供してくれる程、眠りに関しては日本のみならず世界的にも問題になっている様だ。私も、良く眠れた時と、眠れなかった時の、朝の迎える気分は、本当に異なり、その日一日の行動にも大きく影響を及ぼす。良く眠れて、スッキリと朝を迎えた時は、その日一日が身も心も軽い感じで、充実した一日を過ごせた様な気分にもなる。眠りは肉体的にも、精神的にも本当に大切で、よく眠れた時は本当に幸せ感を感じる事が出来る。眠れない人の精神的、肉体的な苦痛は私にも経験が有り、良く理解できる為、「良く眠れる事の幸せは、人間にとって何にも代え難い幸せかもしれない」と考える事がよくある。

2018年6月9日土曜日

目が覚めた時、雨が降っていると、、、

朝、目が覚めた時、しとしとと降る雨音を聞いて、「今日は雨か?雨じゃ起きてもやる事も無いし、もう一寝するか」と、起きない理由にもならない事で自己納得週、二度寝に入る。この二度寝と言うのが、何とも言えない気持ち良さ、贅沢を感じる自分は、「何とマー怠慢なんだろう」と思う事も有るが、この誘惑には中々勝てないし、また勝とうとも思わない。自分にとっては細やかながら、何とも言えない心地良さと幸福感を得る贅沢である。皆さんはこんな経験は有りませんか?これは私の様な貧乏人の感じる幸福感、贅沢感でしょうかね。

2018年6月8日金曜日

人は自分の欲求が満たされ幸福感を得る?

人は日々欲求なり目的を設定し、その欲求が満たされ、目的が達成されれば、幸福感、満足感を得る事が出来る。一方目的が達成されなければ、欲求不満、ストレス、精神的動揺の原因となり、機嫌を損なう様だ。設定する欲求なり目的の内容と程度によるが、容易に達成できる欲求や目的なら良いが、自分の力、環境、状況も考えず、とてつもない設定をすれば、当然目的、欲求を達成する事は初めからわかる筈。しかし、人間は何故か、時として自分自身をよく考えず、初めから欲求が叶わない事や、目的達成など不可能な事(夢)も追い求める事も有る。「身の程知らず」等と言われない様に、自分に合った欲求や目的を追い求め、日々満足感と幸福感を得られる様にしたいものだ。

2018年6月7日木曜日

自分の思い通りに成らないのが世の常

人は何でも自分の思い通りに成る事に満足感と幸福感を感じる様で、自分の思い通りにするべく、日々頑張っているのだろう。しかし、世の中それ程容易でも無く、甘くもなく、自分の思い通りに成る事は、意外と少なく、事と次第では、ある時点で妥協し満足するしかない様だ。世の中には自分の思い通りにする為に、他人を傷つけたり、犯罪を実行する事も頻繁に成って来ており、何とも嘆かわしい世の中に成りつつある。「世の中何でも思い通りに成る」と考える人間は、「何でも思い通りにはならないのが世の常」と考えを変える方が賢いし、ストレスも貯まらないのでは?

2018年6月6日水曜日

日本は景気が良くなってる?政治家は嘘つき?

政府発表では、景気は上向きで良い方向に向かっていると述べているが、本当だろうか?最近では国民も政府発表を信じておらず、政府発表の信頼性もすっかり地に落ちた様だ。町の中で、買い物客の様子を見ていても、景気が良くなっているという様相は見られない。また一般サラリーマンの昇給や賞与も増額されている所は少ないそうだ。昔から「政治家は自分の都合の良い様に、平気で嘘を言うから信用出来ない」と言われてきたが、最近の政治家の言動を見ると、この指摘は間違ってはいない様だ。

2018年6月5日火曜日

「今日も元気に頑張ろう」と思うが、、、

毎日「今日も元気に頑張ろう」と思いつつも、いざとなると、年のせいか、どうも気持ちが減退し、思う様に元気に頑張れないのは、私だけだろうか?高齢者になると、気持ち的には前向きであるが、どうも身体が付いて来ず、つい手抜きをするか、何らかの理由をつけて、サボってしまう。私の場合、残念ながら気持ちと身体は同じ様に伴わない様だ。

2018年6月4日月曜日

人間に歴史あり

人はこの世に生を受け、その人生を全うする為に、一生懸命生き続け、自分と家族の歴史を積み重ねて行くものである。ある人は人の生を一冊の本に例え、この世に生を受け数頁で終わる者もあれば、百ページ以上の長きにわたる者もある。日一日を大切に、又は何気なく生きながら、自分の歴史を記述して行く様である。自分の歴史の内容は仕事、友人、生活、経験と多岐にわたる物で、貴重なものかもしれない。今迄自分の生き様、自分の人生歴史を振り返った事が有るだろうか?人は年を重ねる毎に一歩ずつ、日一日と死に立ち向かい、自分の人生(歴史)を振り返るものと言われるが、自分の終末をどの様に迎え、有終の美を迎えられるか楽しみであり不安でもある。

2018年6月3日日曜日

英語教育で国際感覚が身につくか?

学校英語教育目標の一つとして、「国際感覚を身に付ける」等と書いてあるが、「英語教育で国際感覚は見に付くの?」と考えてしまう。「国際感覚とはいったい何を言っているのか?」と理解に苦しむ事も有る。「国際感覚の身についていない、また国際感覚とは何かを十分理解していない指導者が、どの様にして英語教育で、学習者に英語教育を身につけせる事が出来るのだろう?更に「英語を学習する事で、国際感覚が身に付くの?英語学習だけが国際感覚を身に付ける事の出来る言語?」と疑問だらけである。学校教育関係機関や関係者が「国際感覚とは何か」を勉強し認識する必要が有るのではないだろうか?学校の英語教育で国感覚が身につくならば、世界中の人は国際人になっている筈だが?本来国際感覚などと言う物は無いんじゃないの?

2018年6月2日土曜日

小学校の英語教育は何の為?

小学校で英語教育を始めて年々にもなるが、この英語教育は何の為なんだろう?教育目標は立派な美辞麗句と言うか、希望的観測を並べているが、実際の英語教育もその目標に沿った結果を出しているのだろうか?小学校の英語教育がちゅ学校の英語教育と叱り連携や引き継ぎも行われて居ない事も多い。多くの知識人や学者からは「こんな英語教育は害になっても、何の役にも立たない時間の無駄で、即刻止めた方が良い」と言う意見も多いが、英語教育を実施している学校、教育委員会、教育関係機関はどの様に考えているのだろうか?それとも「上からの指示だから」と言って、何も考えないでただ授業をしているのだろうか?少なからず授業をするからには「何の為の英語教育で、その結果をシッカリ出せる」位の事はして欲しいものだ。これが出来なければ単なる時間の無駄以外の何物でもない。これからも目的がはっきりしない、良く分からない英語教育を継続するのだろうか?

2018年6月1日金曜日

人間は嘘をつく

「犯罪者は自分の罪を隠す為、又は罪を軽くするために嘘をつく」と言われ、一般の人、善人は嘘をつかないと思いがちであるが、嘘をつかない人間は居ないと言っても過言ではない様だ。日常の生活の中でも、人間付き合いの中でも、嘘をついている事は日常茶飯事である事は、多くの人はあまり意識していない様だ。友人、知人の何気ない会話の中でも、自分に都合の悪い事は嘘をついて、その場を取り繕ったり、その場から逃れようとする事は多い。明らかに嘘であるとわかるような嘘は、ジョークとして笑って許されるのであろう。しかし、最近ではこの様な笑って許される様な罪なきジョークは少なく、まじめな顔して、真剣な面持ちで嘘をつく事が多い世の中であり、そこから人間不信、トラブルが多くなっている様だ。嘘に嘘を重ね、嘘の上塗りをかさに、人間関係を悪化させるが、自分を守る為に嘘をつく事が日常茶飯事に成ったしまった今の世の中は、何処かっ狂ってしまったのだろうか?